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    <title>宮崎、歴史こぼれ話</title>
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    <description>科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。</description>
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    <title>飫肥人買い船４</title>
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    <description>　飫肥藩最後の家老平部&amp;#23968;南の日誌、慶応元年(1865)12月19日に、「江戸船船頭罪科吟味ニ付登城、(略)御一門中、家老中、用人中、相談中など御座の間に評決」と記されている。　船頭らの刑の申し渡しは船頭栄吉死罪(牢中にて絞殺)、舟子友吉斬罪、他の船子は額に入れ墨。同年10月に藩の持ち船摸稜丸についての記述があり、江戸船とは摸稜丸と推測する。　文政13年(1830)に細島で発覚した子ども拉致事件から35年経過していることから、その時の刑罰ではなく摸稜丸に依る拉致は、細島拉致発覚後も引き続き行っていたと思われる。　行動の自由を制限されていた奉公人や子どもたちは、主人や親の許可を得ないまま伊勢参宮したことを「抜け参り」と言った。「抜け参り」は社会を乱す行為であったから、支配者側はしばしば禁令を出すが、全面的に禁止されることはなく暗黙のうちに認めていた。　無断で参宮するため「抜け参り」は費用に乏しく、食事その他は道筋の店や人々のお蔭によることが多かった。そのため「お蔭参り」とも言った。参宮して帰郷すると一般参宮者と同様に、坂(酒)迎えの習俗がみられ、抜け参りには成年式の一種と民衆の間に認められていたと言われる。　飫肥藩は伊勢神宮への「...</description>
    <dc:date>2026-07-21T11:20:40+09:00</dc:date> 
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