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    <title>宮崎、歴史こぼれ話</title>
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    <description>科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。</description>
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    <title>飫肥藩の間引き禁止</title>
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    <description>　文禄の検地で飫肥藩の石高は3万6千石に決定。5万石以下の大名は一軍の武将になることが出来なく、軍功を立てても上級大名の手柄になることから飫肥藩は数回検地し5万７千石とした。　慶長6年(1601)4月、二代目藩主祐慶の上洛のとき、随行の家老二人は伏見城中で将軍家に対し、飫肥領は6万石であると偽称申告した。すると、同9年飫肥藩は早速江戸城普請手伝いを命ぜられ、同12年駿府城建築に、同19年再び江戸城石垣普請を命じられた。　藩主の虚勢は財政の困窮をきたし、身分の上下に関わらず生活苦は言語に絶した。　飫肥藩では武士階級や一般領民の間に、子どもの間引きが行われるようになった。生まれた子を膝下に置き窒息死させ、我が子を手にかけることができない場合は産婆に依頼、それを「子おろし婆」と言った。知り合いの妻が孕んでも祝いの言葉は言わず、干されている「おむつ」を見て初めて祝いを言った。　間引きした子は床下に埋めたが、山手では山や川に捨て、海辺では海に捨てた。子どもができたのではと問われたとき、「山にやった」「川に行った」などと言い、聞いた方もそれで納得した。　武士階級でも俸禄の低い武士は副業をすることになる。元和年中(1615〜24)、楠原、板敷、...</description>
    <dc:date>2026-08-18T14:14:54+09:00</dc:date> 
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